剣豪・宮本武蔵
月組公演『夢現無双 –吉川英治原作「宮本武蔵」より-』で珠城りょうが演じるのは、天下無双、負け知らずのヒーロー、宮本武蔵。これまで数え切れないほどの小説、演劇、映画、そして漫画の題材にもなり、誰もがその名を知る剣の達人ですが、実は彼にまつわるエピソードの多くは謎に包まれています。修行と決闘に明け暮れた人生から浮かび上がる、剣豪・宮本武蔵の実像に迫ってみましょう。
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宮本武蔵とは
全戦全勝の剣術人生
宮本武蔵は、天正10年(1582年)、播磨国(現・兵庫県)に、田原家貞の次男として生まれたとされています<天正12年・1584年出生、美作国(現・岡山県)出生など諸説あり>。そして、幼いうちに美作の新免無二斉の養子に入り、家を継ぎました。無二斉が当理流の兵法者であり武芸にすぐれていたことから、少年期から武術を体で学んだのでしょう。13歳にして初めて兵法者と剣を交え、新当流の有馬喜兵衛から勝利を得ることになります。
関ケ原の合戦の直後は、合戦で失職した50万人とも言われる武士たちが仕官先を求め、武芸を磨くべく武者修行に回り、盛んに勝負を行った時代。そんななか、21歳になった武蔵も、京都に上って武者修行を始めます。その京都で、新免無二斉がかつて戦った吉岡家の当主から、数十人いたと言われる門弟までを、次々と斬って倒しました。有名な「一乗寺下り松の決闘」です。
29歳までに江戸から九州までの諸国を巡り、諸流の武芸者と六十余度も勝負をし、そのすべてに勝った、と自著である「五輪書」に記述が残っています。その後、大坂夏の陣、島原・天草一揆などへの参陣を経て、追究し磨き上げた兵法を後進の手に委ねると、正保2年(1645年)、静かにその生涯を終えました。
天才画家でもあった武蔵
武蔵は、生涯負け無しの剣豪であった一方で、日本美術史上において高い評価を得る、一流の画家でもありました。その作品の多くは、対象の本質を最低限のわずかな線で描く減筆法によるものですが、中でも重要文化財に指定されている「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」は、その手法によって一分の隙もない研ぎ澄まされた瞬間を切り取っています。枝の先にとまった一羽の鵙(もず)。そしてよく見ると、枝の下には一匹の芋虫が描かれています。その先に待ち受けている運命を知る由もなく必死に登ろうとする小さな命の、凄まじいまでの緊張感を描いた秀作です。戦いの瞬間に命を懸けてきた武蔵ならではの構図と言えるでしょう。
>>和泉市久保惣記念美術館 デジタルミュージアム
剣術修行と著書
「五輪書」
生涯にわたって剣術を磨き、武士の兵法を探求し続けた武蔵。その集大成であり、自身が完成させた兵法“二天一流”の奥義書が、晩年書き上げた「五輪書」です。宇宙を形成する、地・水・火・風・空を名に付けた五巻から成り、それぞれになぞらえて構成されたこの書は、単に剣術や兵法が記されているだけでなく、その極意はあらゆる道に通じているということを伝えています。社会生活におけるリーダー論、道を極めるための自己鍛錬法、ビジネスなど身近な局面でチャンスをモノにするための心構え、己の在り方を見極める方法…など、現代人が生きていくうえでの重要なヒントが満載されているのです。武蔵が修行の末に遺してくれた、“現代人のためのマニュアル書”と思って読むのも一興です。
「独行道」
武蔵が死の数日前に病床で記したのが「独行道」です。自誓書であるとも言われ、21箇条から成るこの書には、“欲を抱かない”“何事も後悔しない”“他人を羨んだり憎んだりしない”などの言葉が並び、“常に兵法の道を離れず”で結んでいます。目的を達成するために他人や神や物に依存せず、ひたすら己の道を極めようと生きた武蔵の姿が、ここから浮かび上がってきます。
「五輪書」「独行道」から見える剣豪・宮本武蔵。剣の修行のみにとどまらず、自分自身の体験をこういう形で結実させた彼は、究極の自由思想家だったと言えるかもしれません。
巌流島の決闘
六十余度もの決闘を重ねたという武蔵ですが、真っ先に思い浮かぶのが佐々木小次郎との“巌流島(山口県下関市)の決闘”ではないでしょうか。決闘に至った理由は、武蔵が自分以外に剣豪として名を轟かせている小次郎に勝負を挑みたかったからとも、双方の弟子たちの師匠自慢から生じた諍いとも言われています。
舟を漕ぐ櫂を削って作った木刀を手に、約束の刻限に遅れて現れた豪傑・宮本武蔵。対峙するのは秘剣“燕返し”でその名を知られる眉目秀麗な剣士・佐々木小次郎。苛立ち鞘を投げ捨てた小次郎に、武蔵は言い放つ。「小次郎敗れたり!」。…日本人の魂が奮い立つ、息をのむ名場面ですね。
実はこの闘いについては「五輪書」の中に記述がなく、いくつかの古文書に書かれた内容に、後の小説や芝居に描かれた場面の像が重なり、現在のようなドラマティックなイメージで固定されたと考えられます。
月組公演の原作、吉川英治の「宮本武蔵」
吉川英治原作の「宮本武蔵」は、1935年から1939年まで新聞小説として連載されました。足かけ5年、述べ1013回にわたる大作です。日中戦争から太平洋戦争へと向かい誰もが不安を抱く時局に、死と直面せざるを得なかった人々の胸に響くものがあったのでしょう。作品は高い評価と支持を受け、大衆を魅了しました。
執筆のきっかけは、「父帰る」などで知られる菊池寛と直木賞の由来となった直木三十五の、二人の文豪による「武蔵名人説」と「武蔵非名人説」の議論。それに巻き込まれた吉川英治は“小説”の形でその答えを出すことになったのです。
小説「宮本武蔵」は作者が“史実として確かなものはたった三千字程度”と記しているとおり、ほとんどが吉川英治の創作です。心を通わせる幼馴染のお通、宿敵の美剣士・佐々木小次郎、武蔵の師として描かれる沢庵和尚、等々、多彩な登場人物には実在と架空が混在していますが、実在する人々もそのエピソードは、作者の言葉を借りれば“空想”です。しかしながら、小説の大ヒットにより、後に数多くの映画や芝居、漫画の原作として扱われ、この吉川版が日本人の宮本武蔵像のイメージを決定づけることになりました。そして、修行と闘いの中で人間的に成長する武蔵の姿を、見事な筆致によって描いたこの作品は、執筆から80年経った今もなお、共感する読者が絶えません。
年代 | 年齢(数え年) | 事項 |
1582年 | 播磨国、田原家貞の次男として生まれる。※諸説あり。 同年、本能寺の変で織田信長没。 |
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1591年 | 10歳 | 美作国、新免無二斉の養子になる。 |
1594年 | 13歳 | 有馬喜兵衛を相手に人生初の決闘で勝利。 |
1600年 | 19歳 | 関ヶ原の戦いに、西軍側で無二斉と出陣。※東軍説もあり。
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1602年 | 21歳 | 京都に上る。 |
1603年 | 22歳 | 江戸幕府成立、徳川家康が征夷大将軍に。 |
1604年 | 23歳 | 吉岡一門と戦い、三戦三勝。(一乗寺下り松の決闘) |
1610年 | 29歳 | 巌流島で佐々木小次郎との決闘で勝利。 |
1615年 | 34歳 | 大坂夏の陣に、徳川譜代大名・水野勝成の軍で参陣。
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1626年 | 45歳 | 明石藩、小笠原家の客分になる。
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1631年 | 50歳 | 兵法の道に達する。
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1638年 | 57歳 | 島原の乱に、中津藩の小笠原軍で参陣。
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1640年 | 59歳 | 熊本藩、細川家の客分になる。 |
1643年 | 62歳 | 金峰山の霊巌洞に籠り「五輪書」を起筆。 |
64歳 | 「五輪書」完成。「独行道」を記す。同年、5月19日没。 |
※生年など、年代に諸説ある出来事を含む。
キーワード解説
兵法の道に達する
武蔵は「五輪書」“地の巻”の中で、兵法とは武士が実践すべき道であると説いた。とりわけ闘いに勝つために備えるべき条件を追究し、日夜稽古に励んだ結果、50歳の時に兵法を体得したと述べている。
島原の乱
またの名を“島原・天草一揆”といい、天草四郎時貞を総大将に、弾圧されていたキリシタンの人々が“自由と平等”を求め蜂起するも、幕府の制圧軍の前に散っていった。
月組公演『夢現無双 -吉川英治原作「宮本武蔵」より-』は、剣に生き、恋に生きた天下無双の剣豪・宮本武蔵の生き様を劇的に描き出す壮大な物語です。珠城りょう率いる月組によって甦る、日本を代表するヒーローと彼を取り巻く人々のドラマを、どうぞお楽しみに!